荒倉神社の手水鉢 - 凡そ4Kmの道程を20日間かけて運んだ巨岩造り
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[ 高知県高知市春野町弘岡中 ]鳥居の右脇の狛犬の脇に、ざまーな(大きな)巨岩があるがですが、実はこれ「手水鉢」ながです。神社やお寺の参拝前に手や口をすすぎ、身を清めるための水を貯めておく鉢が普通の「手水鉢」じゃけんど、これは鉢じゃのうて岩造りながです。現在、高知市の市指定有形文化財に指定されちょります。春野地域最大の手水鉢(ちょうずばち)で、縦142cm、横121cm、高さ151cmの大きさです。上面は121×200cm...
河間左衛門次郎光綱 - 八幡庄・河間に居館を設け河間氏を称した土佐南朝方の武将
[ 高知県高岡郡佐川町庄田 ]場所は、以前御紹介しちょります鯨坂八幡宮の近くの庄田伊野線の道路脇にあるがです。 鯨坂八幡宮 - 伝承じゃ高吾北の開拓者・別府経基が造営とも 2017-01-17 河間光綱に関しては、詳しい資料は無いがですが、『佐伯文書』や偽書ではないかとしてその資料の信憑性自体疑われちゅう 『八幡荘伝承記』等に見られる、土佐南朝方の武将ながです。『八幡荘伝承記』によれば、「建久三年(1192)七月源朝...
源希義墓所 - 源頼朝の同母弟で頼朝の挙兵の際、平家追討により討たれる
[ 高知県高知市介良 ]治承4年(1180年)土佐に流罪になっちょった源希義は兄・頼朝の挙兵を受け立ち上がろうとした際、平家の追討令により平重盛の家人・蓮池家綱と平田俊遠に討たれたがです。 源希義の鞍掛けの岩 - 源義朝の五男で、この地で討たれる 2012-04-15 源希義戦死伝承之地 - 兄・頼朝の挙兵に立ち上がるも平氏に討たれる 2016-07-15 馬塚 - 平家の追手から夜須に逃れる途中、力尽きた源希義愛馬の塚 2016-07-19 ...
石鎚城跡 - 中の城城主じゃった吉田伊賀介重康の屋敷跡
[ 高知県安芸郡芸西村西分甲 ]石鎚城跡は、西分天満宮の約200m南の小高い丘にあり、写真の城八幡の後ろ側になるがです。 『南路志』に、馬ノ上の「中の城」城主じゃった吉田伊賀介重康の屋敷跡じゃったとあるがです。 吉田伊賀介重康の父は、長宗我部国親・元親の2代に仕えた吉田大備後こと吉田重俊で、伊賀介重康も元親に仕えちょります。吉田伊賀之介重康 - 父は通称・大備後事、吉田重俊戦国土佐 2014-05-07MapFan地図へ ...
妙智山五福寺衣笠妙念堂 - 土佐西国三十三観音霊場第16番
[ 高知県南国市稲生宮の前 ]場所は南国市稲生の北側に聳える鉢伏山の東南麓の衣笠にあるがですが、「衣笠」の地名の由来は、土佐の国司として土佐に来た、紀貫之が京都の「衣笠」に似いちゅう所から、名付けられたとも言われちょります。左が五福寺衣笠妙念堂ですけんど、右側は赤い鳥居の扁額にゃ「正一位稲荷大明神」(旧村社)とあり、御祭神は宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)を祀るお稲荷さんが鎮座しちょります。 左の...
日切り地蔵尊 - 濱口雄幸が東京駅で右翼の凶弾に倒れた時、県民が平癒を祈願
[ 高知県高知市南宝永町 ]廻りを花で囲まれた、こんまい(小さい)地蔵尊のお堂があるがです。(2017年土佐に居った頃に撮影した写真)偶々、通りかかった際、「濱口雄幸」の名前に気付いて、写真に収めた次第ながです。濱口雄幸は、明治3年(1870)、土佐国長岡郡五台山唐谷(現・高知市)の水口胤平の3人兄弟の末子として生まれ、明治22年(1889)年に安芸郡田野村(現・田野町)の濱口義立の養嗣子(跡継ぎのための養子)となり...
稲田貫之丞 - 堺事件・十番目に切腹
[ 高知県高知市種崎・千松公園西 ]天保12年(1841)、高知城下南新町(現・高知市桜井町周辺)に生まれ、名は楯成と言う。慶応4年(1968)2月15日和泉国堺の堺港で、土佐藩士がフランス軍水兵を攘夷討ちにした殺傷事件で、警備に付いちょった土佐藩士の一人ながです。時は、慶応4年(1968)1月3日に起った戊辰戦争の初戦・鳥羽伏見の戦いから僅か1ヶ月後の頃ですき、多くの志士達にゃ攘夷論者(外国との通商に反対し、異国人を撃退す...
猿田石灰洞 - 伝説の忍者・日下茂平も修業した洞窟じゃとか
[ 高知県高岡郡日高村沖名 ]日高村役場から、県道291号谷地日下停車場線を約3.2Km南に行った場所の日高村沖名地区に猿田洞(猿田石灰洞)と呼ばれる洞窟があるがです。この猿田洞が発見されたがは安政5年(1858)に地元の農民・虎之丞によって発見されたがじゃそうです。以前から気になっちょってボタリングで撮影に近くまで出た際、途中寄り道して立ち寄ったがです。 猿田石灰洞 村文化財指定 指定年 昭和35年6月9日(1960) ...
土居市太郎 - ワイル・ウエフ号、伊呂波丸と海難事故に遭い、3度目の海難事故で命を落とす
[ 高知県香南市夜須町坪井 ]土居市太郎は天保4年(1833)、香美郡夜須(現・夜須町)に生まれ、坂本龍馬が組織した海援隊に水夫として参加しちょります。倒幕が成ると横浜港や神戸港が新たに開港した事で、それまで長崎を貿易窓口にしちょった外国商人たちは次第に横浜や神戸・大坂へと移って行ったがです。明治元年(1868)、土佐藩も長崎の土佐商会の規模を縮小し、大坂に開成館大阪出張所(大阪商会)を開き、岩崎弥太郎を赴任さ...
二宮梶平直道 - 戊辰戦争・会津戦に従軍し負傷し、傷がもとで落命
[ 高知県高知市鴨部能茶山 ]高知市鴨部能茶山にある、二宮梶平直道の墓です。二宮梶平直道は、土佐郡鴨部村(現・高知市)の人で、戊辰戦争に輜重隊として従軍し明治元年8月23日に会津滝沢で負傷し、傷がもとで落命しちょります。49歳。本墓は、会津若松市の西軍墓地に埋葬されちょりますが、土佐の墓は遺髪墓じゃろうと思われます。 会津若松西軍墓地 1 - 会津戦争で亡くなった土佐藩兵49名が眠る 2015-09-28 会津若松西軍墓...
菅原高視朝臣邸跡 - 昌泰の変で父・菅原道真に連座して土佐に左遷される
[ 高知県高知市北高見町 ]菅原高視朝臣邸跡があるのは、筆山トンネルの南側の高見山(皿ヶ峰)の東側、標高20m程の裾野にあるがです。 今から千年程前の、菅原高視朝臣邸跡下は海に近い場所じゃったそうですから、波の影響のない高台に居を定めちょったがじゃないかと想像するがです。 高視朝臣の邸跡藤原時平の讒言によって延喜元年(901)正月25日、太宰の権師として西海に左遷された菅原道真公と同じく、土佐権守として京都を...
馬詰敬親 - 土佐藩初期の小児科の名医で、谷秦山と儒学も学ぶ
[ 高知県高知市秦泉寺・中天場山 ]馬詰敬親と言う人は、土佐藩初期の医者で小児科の名医じゃったそうです。慶安2年(1649)、山内家家臣・馬詰六郎兵衛親則の二男として生まれちょります。寛文4年(1664)、三代藩主・山内忠豊、四代・豊昌に小姓とし五人扶持切府十四石で召し抱えられ、寛文10年(1670)に二人扶持切府四石加増され馬廻り格になり、更に寛文12年(1672)にも加増され知行百五十石まで出世しちょります。谷秦山と儒学を学...
遍路標石 - 新川の大師堂のある土手に上る石段脇
[ 高知県高知市春野町森山新川 ]土手上の大師堂に上る石段脇の石積の中に、この遍路標石が埋め込まれちょります。自然石で、手差しで「右 清瀧寺 へんろ 〇路道」と刻まれちょります。 新川の大師堂 - 春野十景 2009-09-24 MapFan地図へ ...
片岡但馬守父子の墓 - 片岡光綱が関所番城・柏原城を置き、弟の片岡但馬父子が守る
[ 高知県吾川郡いの町柳瀬柏原 ]場所は仁淀川の本流と上八川川が合流点の出来地から、約1km下った仁淀川左岸(東岸)の柏原という集落にあると参考資料に記述されちょる阿弥陀堂を探したがですが、いくら探しても地図には目的のお堂が見つからず、周辺を探し回ってやっとお堂と数基の五輪塔を見つけたがです。柏原城主 片岡但馬守父子の墓戦国時代、高吾北地方に勢力を誇った法厳城(現・越知町片岡)主・片岡光綱は、ここ柏...
安田城址 - 安田泰綱は長宗我部盛親に付き従い関ヶ原・大坂の陣に出陣
[ 高知県安芸郡安田町大字東島字城 ]安田城址は、土佐くろしお鉄道の安田駅より北東に直線距離で約1Km弱の場所にあるがです。築城時期は不明ですが、安田氏の居城じゃったがして、泉城とも東城とも云う。安田氏は本姓を惟宗といい、1200~1635年頃の安田庄(安田・馬路)の領主で、安田川流域を領有すると共に、田野、奈半利にも飛領地を有し、安芸氏に従属しちょった。永禄12年(1569)長宗我部元親と安芸国虎が八流れで戦い、安...
荻野家長 - 関ヶ原の戦い後、山内一豊に召し抱えられ、隠居後に「逆修塔」を建立
[ 高知県いの町池ノ内・荻野神社 ]案内板も何もない神社で、迷い迷い漸く探しあてた神社です。鬱蒼とした山の中を上って行くと、扁額にゃ何も書かれちゃしませんが荻野神社といい、その境内の一角に、目的の「逆修塔」があったがです。池ノ内の逆修無縫塔 文化財 子育て・教育・文化 いの町ぎゃくしゅ 【逆修】仏教用語。生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈るための仏事をすること。そのために建てる石塔婆を逆修塔という。墓...
米森玄蕃妻子墓 - 元親軍に攻められ城を逃れるが捕らわれ殺害される
[ 高知県高岡郡佐川町丙 ]斗賀野の斗賀野城 (二ノ部城)が、長宗我部元親の軍監・安並但馬に攻められ城主・米森玄蕃元高の妻子は城を落ち延びたがですが、斗賀野城 (二ノ部城から直線距離で北に約1.7Kmの柏原まで逃れて来た所、追ってに捕らわれ殺害されたという。その後、里人たちが菩提を弔って来たのが、この米森玄蕃妻子墓(妃乳母の墓)じゃそうです。 米森玄蕃元高 - 長宗我部元親に降伏せず、ただ一人迎え討ち激戦の末...
沖之古城土居之門跡 - 波川氏と日下の三宮氏の急襲を受けて館は灰塵と化した
[ 高知県高岡郡佐川町乙 ]この「沖之古城土居之門跡」の建つ場所は、当時の土居のあった西南隅になるそうで、地検帳(天正18年)によると一町七反七畝四歩の広大な面積で、周囲を約15mの堀で守られちょったそうです。この沖之古城を造ったと言われちょるのは三野氏(惟宗氏)で、東部は大平氏、、南部は津野氏の勢力圏に接しちょる要衝の場所を治めちょったけんど、正中2年(1325)に、波川氏と日下の三宮氏の急襲を受けて敗れるが...
久喜の沈下橋 - 県内最古の沈下橋と言われ国指定の登録有形文化財
[ 高知県吾川郡仁淀川町久喜 ] 場所は仁淀川町のバス停「大崎駅」から国道33号線沿いを松山方面に約760m程行くと、河下に降りる道がある。久喜橋までは高低差約45m、約460m下った場所にあるがです。 橋の手前に半分コンクリートに埋まった、「久喜(橋)昭和十年」の記念碑と思われる丸石があった。 右が上流、左が下流 久喜橋 (国指定登録有形文化財)昭和10年に作られた、鉄筋コンクリートの沈下橋。共に現存する高知県で最...
曽我山 - 地名の由来は曽我兄弟の弟・五郎が流されて来たとも
[ 高知県高知市朝倉東町 ]以前、日高村の小村神社の摂社に曽我兄弟を祀る祠があるのを御紹介しましたけんど、その後、下記のような記述を見つけました。 剱神社 - 日本三大仇討ち「曽我兄弟の仇討ち」の曽我十郎・五郎を祀る 2020-09-20 (省略)・・・「曽我山」という山があります。これは例の富士の裾野の仇討ちで有名な、曽我兄弟の弟の五郎が、その武勇をおしまれて、追放され、この土佐へ流されてきたと言います。で、曽...